バブル崩壊から今日までの財政政策は同じ間違いを繰り返している
こんにちは 宮本一三です。
さて、本日はバブル崩壊から今日までの財政政策を簡単に振り返ってみましょう。
1980年代の中頃から、わが国の経済がバブル化しかけていることは、政策当局者は気づいており心配はしていました。株価の上昇圧力、天井知らずの地価高騰、その上の金融機関の融資競争、早くブレーキをかけなければ大変なことになることは分かっていたのです。しかし、アメリカを中心とした諸外国から日本の国際収支の黒字を非難され「日本は内需拡大策をとれ」「輸入拡大、輸出抑制をせよ」との強い圧力をかけられ続けていました。アメリカの議会前の広場で日本製の自動車や電気製品がハンマーでたたき割られた頃であり、どうしても引き締めの時期を延ばさざるをえなかったのです。そんな状況で国際収支の黒字幅がGDPの2%程度まで圧縮された1990年、やっとアメリカが日本の引き締め政策を容認してくれることになったのです。この段階で、政府・日銀が思いっきりブレーキを踏んだからバスの乗客は一斉に前につんのめり、バブルは急激に崩壊したのです。いわゆる「総量規制」の発動や公定歩合の大幅な引き上げがバブル崩壊をより一層深刻なものとしました。その後、あまりの深刻な不況に当時の宮沢喜一内閣は景気立て直しのための手を打ちましたが、この深い傷を回復するに十分とはとてもいえないものでした。
1997年になって景気回復の動きが見えてきたとき、橋本龍太郎内閣は、財政再建優先の方針を打ち出しました。消費税の2%引き上げを含む9兆円の国民負担増加策をとったのです。当然、経済成長は急落し、山一証券や北海道拓殖銀行の破綻を招きました。この数年後の自民党総裁選において、橋本元総理は「私の財政政策は間違っていた。国民に深くお詫びしたい」と謝罪したのです。
1998年7月、小渕恵三内閣が誕生し、宮沢元総理が大蔵大臣に迎えられました。その上で、小渕内閣は、橋本前内閣が推し進めてきたいわゆる「六大改革」をすべて凍結し総額24兆円に上る大規模な景気刺激策を実行したのです。大蔵省の大先輩である宮沢元総理の大盤振る舞いには財政当局も抵抗できなかったのです。その結果、2000年3月末には日経株価は約2年間で8000円近くあがって2万3000円を超え、いよいよ長いトンネルを抜け出せるかという矢先まできたのです。しかしここで小渕総理は急死されました。
その後、森内閣を経て、2001年4月小泉純一郎内閣となり、その国民の熱狂的な支持を背景に、自由競争原理主義に基づく規制緩和、民営化を中心とした構造改革路線を強力に推進したのです。「構造改革なくして経済成長なし」の旗印は立派でしたが、実態はまたしても「財政再建優先」でした。「公債発行30兆円」の枠にとらわれ、景気を悪化させ、結果として小泉政権の5年間で国債発行額は159兆円に達しました。財政状況を改善しようとして逆に悪化させた典型的な例となったのです。
民主党政権となってからも、財政再建至上主義は変わらないままです。
このようにこの20年間の経済政策の流れをみても、「財政再建」に縛られていることがはっきりと分かります。
経済成長を第一目標として、名目3~4%の成長を5年間続けるような積極的な財政政策に転換することが、結果的に税収を増やし、財政再建を進めることを認識すべきです。
さて、本日はバブル崩壊から今日までの財政政策を簡単に振り返ってみましょう。
1980年代の中頃から、わが国の経済がバブル化しかけていることは、政策当局者は気づいており心配はしていました。株価の上昇圧力、天井知らずの地価高騰、その上の金融機関の融資競争、早くブレーキをかけなければ大変なことになることは分かっていたのです。しかし、アメリカを中心とした諸外国から日本の国際収支の黒字を非難され「日本は内需拡大策をとれ」「輸入拡大、輸出抑制をせよ」との強い圧力をかけられ続けていました。アメリカの議会前の広場で日本製の自動車や電気製品がハンマーでたたき割られた頃であり、どうしても引き締めの時期を延ばさざるをえなかったのです。そんな状況で国際収支の黒字幅がGDPの2%程度まで圧縮された1990年、やっとアメリカが日本の引き締め政策を容認してくれることになったのです。この段階で、政府・日銀が思いっきりブレーキを踏んだからバスの乗客は一斉に前につんのめり、バブルは急激に崩壊したのです。いわゆる「総量規制」の発動や公定歩合の大幅な引き上げがバブル崩壊をより一層深刻なものとしました。その後、あまりの深刻な不況に当時の宮沢喜一内閣は景気立て直しのための手を打ちましたが、この深い傷を回復するに十分とはとてもいえないものでした。
1997年になって景気回復の動きが見えてきたとき、橋本龍太郎内閣は、財政再建優先の方針を打ち出しました。消費税の2%引き上げを含む9兆円の国民負担増加策をとったのです。当然、経済成長は急落し、山一証券や北海道拓殖銀行の破綻を招きました。この数年後の自民党総裁選において、橋本元総理は「私の財政政策は間違っていた。国民に深くお詫びしたい」と謝罪したのです。
1998年7月、小渕恵三内閣が誕生し、宮沢元総理が大蔵大臣に迎えられました。その上で、小渕内閣は、橋本前内閣が推し進めてきたいわゆる「六大改革」をすべて凍結し総額24兆円に上る大規模な景気刺激策を実行したのです。大蔵省の大先輩である宮沢元総理の大盤振る舞いには財政当局も抵抗できなかったのです。その結果、2000年3月末には日経株価は約2年間で8000円近くあがって2万3000円を超え、いよいよ長いトンネルを抜け出せるかという矢先まできたのです。しかしここで小渕総理は急死されました。
その後、森内閣を経て、2001年4月小泉純一郎内閣となり、その国民の熱狂的な支持を背景に、自由競争原理主義に基づく規制緩和、民営化を中心とした構造改革路線を強力に推進したのです。「構造改革なくして経済成長なし」の旗印は立派でしたが、実態はまたしても「財政再建優先」でした。「公債発行30兆円」の枠にとらわれ、景気を悪化させ、結果として小泉政権の5年間で国債発行額は159兆円に達しました。財政状況を改善しようとして逆に悪化させた典型的な例となったのです。
民主党政権となってからも、財政再建至上主義は変わらないままです。
このようにこの20年間の経済政策の流れをみても、「財政再建」に縛られていることがはっきりと分かります。
経済成長を第一目標として、名目3~4%の成長を5年間続けるような積極的な財政政策に転換することが、結果的に税収を増やし、財政再建を進めることを認識すべきです。
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テーマ : 政治・経済・時事問題
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